日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇 消費税増税に伴う経済対策の時代錯誤

10月1日(火)、消費税の8%への増税が確定した。民主党野田内閣が、自民党・公明党と3党合意で「税制と社会保障の健全化」のためと稱した消費税の増税のはずだった。発表された、「経済対策」は、大企業への減税とバラマキのための増税が正体であった。

民主党が自・公両党に騙され、国民が民・自・公党に騙されたわけだが、社会保障と財政の健全化も絶望的となった。せめて、今回のドタバタ劇の本質を知っておかなければならない。一言で言えば、野田政権も安倍政権も民自公3党も、官僚勢力に利用されたことだ。具体的にいえば、経済産業省と財務省が、日本を支配するための壮烈な戦いの中で、経済産業省が勝ったということだ。政治家たちは吉本喜劇のピエロだ。
これが劣化した平成日本議会政治の実体で、国民主権の議会制度が国民を騙す制度に変身したのだ。ファシズムより恐ろしいことだ。全国会議員の「能力・資格審査」が必要な時代になった。最近、日本中で頻発している「天変地異」は、政治に対する神の怒りと思えてならない。

「経済対策」最大のナンセンスさは、「大企業への減税等で賃金をアップさせ、増税対策とする」ということだ。腐敗劣化したわが国には、引った繰ったカネを民衆に配けるという「ネズミ小僧」のような資本家はいない。

「デフレ脱却」というが、昭和40年代の経済成長を前提とする時代ではない。現在の経済混迷は、資本主義の構造破綻と理解すべきである。50年前の歴史感覚で経済財政政策を考えるエコノミストたちのテレビからの駆逐が必要だ。

〇憲法夜話 9)明治議会政治の天才・星亨(ほしとおる)

平成の議会政治が狂ってきた原因のひとつに、政治家の能力や見識の問題がある。あの欽定憲法のなかで明治の議会人は何を考え何を為したのか、歴史に学ぶことが大事である。

(選挙大干渉の後始末!)

松方内閣の衆議院選挙干渉は、枢密院議長の伊藤博文を怒らせた。明治憲法を創った伊藤は、憲法の危機を感じ政府を糾明する。ここら辺が現代と違うところだ。消費税問題は議会民主政治・憲法原理冒涜の典型だ。政界の長老が怒らないのはおかしい。

明治政府は狼狽して品川内務大臣を辞めさせ、民党に信用のある副島種臣を後任にあてる。第3回議会をようやく切り抜けた松方内閣は、内閣改造で政権の強化を図ったが、選挙干渉に関係した県知事の人事問題で内閣不統一を招き、明治25年7月30日総辞職した。8月8日に伊藤博文を首班とする第2次伊藤内閣が成立する。

明治憲法下、2度目の衆議院選挙は選挙干渉で歴史に残ったが、この選挙で明治の議会政治を代表する人物が当選してきたことは、あまり知られていない。それが星亨である。星は、明治23年の第1回衆議院選挙で、栃木1区から出馬して落選していた。第2回選挙で初当選し、民党に推されて衆議院議長に就任する。この星亨の政治軌道を知ることが、明治の議会政治の実態を理解する原点である。

(政治家・星亨論)

わが国120年の議会政治で、議会の権限・機能を熟知し、活用した政治家は、戦前では星亨、戦後では田中角栄であろう。星亨は1850年(嘉永3年)東京で生まれたとなっているが横浜生まれの説もあり、不明な部分が多い。幼少の頃貧しい暮らしであったといわれるが、開成所に学び英国のミドルテンプル法学院に留学している。庶民の生まれで、明治政府の高官となった最初の人物とされているが、出自は謎である。

あだ名を「押し通る」と呼ばれ、強引で横暴で権謀術数のうえに、金権腐敗の元凶といわれた人物でもある。この見方は政治の表面しか理解しない日本人の教科書的観察にすぎない。星亨は明治最大の政治的天才であり、また議会開設の初期、最も国民から注目された政治家であった。星亨は、明治初期バリスターの資格を持つ一流の法律家で、弁護士の前身である代言人となるが、単なる法律家ではなかった。

自由党の結成に参加し、国会開設運動をはじめ、各地の民権運動の指導者であった。代言人として民権運動家の弁護にあたり、星自身も二度入獄するという闘士であった。星の民権運動の特長は、旧士族を対象とせず一般民衆に対する啓蒙にあった。活発な遊説、新聞の発行、そして婦人を対象とした大衆活動は、士族の不満が主流であった民権運動の中で際立っていた。民権の伸張に尽くした役割は大きい。

第2回臨時選挙で当選し、衆議院議員となるや星亨の活躍は国民の注目するところとなる。英国留学で身につけた国際感覚は抜群で、性格も度胸があって行動力があり、直感力が鋭く弁舌がさわやかで迫力と説得力があった。強引さや駆け引きの上手さは、政敵から権謀術数、横暴といわれた。味方の自由党内部からも批判ややっかみで“星退治”ということばが残っているほど攻撃を受けた。

星亨は第3議会で衆議院議長に選ばれる。ところが、現職の議長が懲罰委員会に付されるという前代未聞の事件が発生し除名される。きっかけは汚職の疑惑である。疑惑とされた「大阪取引所事件」は、星にとって無実が証明されていた決着済みの問題であった。議長不信任案は可決されたが、星は「事実無根、不信任決議に法的強制力なし」として、議長も辞めなかったため、除名されることになる。

星亨が政治資金を利権がらみで調達し、いろんな疑惑や誤解を世間に与えていたことは事実である。しかし、星のために弁解を許されるならば次のことがいえよう。ひとつは、星の役割は新興実業家層の政治的代弁者であったことである。近代的工業国へ発展する過程で生じる政治と産業経済の調整役であった。藩閥政府と政商との癒着とは質を異にしている。

二つ目は、決して私利私欲のためではなかった。自由党の勢力を拡大させ近代化させることが使命と考えていた星にとっては、資金も必要であり、多少の危ない橋も渡ったであろう。同時に星の欧米仕込みの法律知識が、明治の日本社会の常識との間で、相当のズレがあったことが誤解を拡げたのである。

星議長追い落としの原因は別にあった。それは、改進党をはじめとする民党六派の星に対する遺恨であった。当時、星は条約改正問題で苦慮していた陸奥宗光外相を助けて、自由党の軟化工作を行い成功していた。民党6派からいえば民党の切り崩しであり、不倶戴天の敵であった。

星亨の議会政治観は「何がなんでも政府のやることは悪いということではなく、政策によっては民党も協力すべきである。民党も現実的になって政権にかかわるべきである」というものであった。星亨はこの信念を実行に移し、「最早、政党を基盤としない政権は限界がある」として、藩閥政府の脱皮と政党の近代化を熟考していた伊藤博文を口説き落として“立憲政友会”の結成に成功する。時は明治33年9月であった。

議会政治120年の中で「政友会」の結成と、党首伊藤博文が組閣した第4次伊藤内閣の意義は大きい。この舞台廻しの主人公は星亨であった。しかし、星亨は兼職していた東京市議会議長室で執務中(当時は衆議院議員と兼職ができた)、伊庭想太�によって刺殺された。明治憲法下では天才的政治家は、暴漢によって殺害された。昭和憲法下では天才的政治家を国家権力が政治的に忙殺する。これが日本的民主主義の実態である。

星亨が衆議院議員であった時期は、わずか9年間であった。それ以前の自由民権・国会開設運動の秀れた指導者であったことも高く評価されるべきであるが、わが国の議会史の中で特筆されなければならない。まず、朝鮮半島の情勢が緊迫し、明治27年8月1日に日本は清国に宣戦を布告する。明治政府にとっては初めての対外戦争であった。大本営も政府も議会も臨時に広島に移るなどで対応し、翌年4月には日本の勝利で講和条約が締結される。勝利したとはいえ、ロシア・ドイツ・フランスなどから干渉を受け、日本政府は狼狽するが、指導者の英知で対処する。

日清戦争は、わが国の政治・経済・社会の各分野に大きな変化をもたらした。なかでも、藩閥政府側は民党に対して「超然主義」を採り続けることはできなくなった。わが国の資本主義の伸長とともに、政党の力が強くなる。政党側も支持者を増やすため、政府側と妥協と提携を必要とするようになる。

そこで「藩閥政治の改革」と「政党の近代化」が重要な課題となる。その課題に挑戦したのが星亨であった。平成の現在、「官僚支配政治」からの脱却と「政党をまともにする」改革を断行できる政治家はいないのか。 (了)

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