日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇 第23回参議院通常選挙の総括

今回の参議院通常選挙は、21世紀前半の日本の命運を方向付ける歴史的意味をもっていた。しかし、現憲法下の最大の政治危機、経済危機、否、もっといえばデモクラシーの危機にもかかわらず、既成政党がその危機の本質を提起せず、懐に隠した選挙であった。さらに多くの巨大メディアが、目先の生き残りのために、自公権力の真の補完勢力に堕落した後味の悪い選挙といえる。

選挙の結果は、自民党65、民主党17、公明党11、みんなの党8、共産党8、日本維新の会8、社民党1、生活の党0、みどりの風0、新党大地0、諸派1、無所属2であった。「日本一新の会」の多くの会員は、「国民の生活が第一」を理念とする候補者を懸命に応援した。新しいデモクラシーの創造に参加された努力に敬意を表します。私は千葉県を中心に新潟県、広島県などで友人の応援に入った。貴重な体験をさせてもらった。それを参考にして、参議院通常選挙を総括しておきたい。

1)崩壊過程に入った日本の議会民主政治!

常識として知っておくべきことは、議会民主政治とはフィクションと限界の上に成り立っているということだ。それは、「人間性善説」で国民の代表者を選ぶ有権者は国民として適切、かつ正常な常識を持っており、投票も正当に行うという前提である。従って選ばれた代表者は「エリート」と呼ばれ、良識と優れた能力を持つ人物であるというフィクションを仮説として成り立っている。この仮説が現実でないことを誰もが知っており、少しでも現実化する努力が民主政治への人間の責任である。

欧米の先進国では、この仮説を少しでも現実にすべく、幼児期から民主政治の基本教育を徹底させている。わが国のように、議会政治の教育は小学校6年生の国会見学で済ませ、高校の社会科では受験重点科目ではないので、単位消化のため偽装して、社会問題となった多くの進学校があった。社会教育も含めて真っ当な議会民主政治教育など、日本には欠けらもない。

議会民主政治が仮説に基づいたものである限り、決定の方法である「多数決原理」も絶対的なものではない。相対的なもので人間の価値観、精神など基本権については限界がある。国政選挙に立候補する人間なら、こういう常識を身につけておくべきだ。参議院選挙の立候補者で、ほんの数人しか理解していない。否、1人もいないかも知れない。

議会民主政治が、このように不安定な要素なるが故に、より健全さを担保する「機能」が必要となる。それがマスコミ・メディアの役割であり、また官僚組織の健全さがなければ、議会政治は適切に機能しない。ところが、「メディアも官僚組織」も、猫かぶりは天才である。本性を隠し、自己利益の爪を研ぎ、相協力しながら形骸化した多数決原理を正当化して、議会民主政治を蝕んでいる。

こういった点から今回の参議院選挙を検証すると、わが国の議会民主政治は深刻な崩壊過程に入ったといえる。ごく代表的な問題を挙げておく。

1)参議院の「ねじれ問題」
衆議院が与党多数で参議院が野党多数状況について、政治が決めることができない不祥事として、自民党と公明党の与党が参議院選挙の政治テーマにした。巨大メディアもこぞって「ねじれ」が不祥事という印象を国民に与える記事を連日のように書きたてた。これが選挙の結果に大きな影響を与えた。国会の「ねじれ」は、善いか悪いかの判断で論ずべきではない。選挙という国民主権を行使した結果である。国会はこれに従う義務が憲法上生じるのだ。

与党が「ねじれ」を嫌うなら、国民がそう選択できる理念や政策を提示すべきである。「ねじれ」そのものが国民の選択の不祥事であると、メディアを悪用して国民を誘導しようとするのは、国民主権と基本的人権(思想と政治活動の自由)を侵すものだ。山口公明党代表が選挙運動で、ねじれた手拭いを真っ直ぐにのばすパフォーマンスをテレビで何回か見たが、東大卒の弁護士のやることか。難関といわれる司法試験や公務員試験に合格するには、憲法や議会民主政治に健全な知識を身につけていては合格しない傾向が、日本にはある。

2)憲法違反といえる巨大メディアの選挙予想記事!
メディアの健全な機能がなければ、議会民主政治は最悪の制度である。選挙戦終盤の巨大メディアの予想記事は態度未定が50%もあるなかで断定的に与党候補が勝利する意図で報道していた。特に酷いのは、7月19日付の朝日新聞朝刊である。『参院選 終盤の情勢』で「自民党優勢続く勢い」との見出し記事である。日本列島のカラー地図に地方区の当選政党を、一部を除いて確定させて掲載していた。

これは記事による予想でなく、図解による強力な断定をイメージさせたもので、報道として当落の弾力性を失わせ、有権者の投票行動に干渉するものだ。同時に棄権を増すことにもなる。この記事が原因で当落に影響したケースもあったと想定できる。しかも、基礎資料とした世論調査は不正確なものだ。この記事は憲法の国民主権に真っ向から反するものといえる。損害を被った立候補者は、憲法訴訟を行うべきだ。これは与野党を超えた問題で、憲法は朝日新聞に主権があるとは書いていない。

参議院選挙に直接関係することではないが、読売新聞にもおかしな話があった。私の新刊書『小沢一郎謀殺事件』を出版した、ビジネス社によれば、7月7日付で他の書籍も含め広告を出すことが決まり、私の新刊書を真ん中にした広告ゲラも完成し、読売新聞広告担当との作業も終わっていた。ところが、広告掲載の直前に「平野の新刊書を広告から削れ」と、読売側から指示が出たとのこと。誰の指示かは想像できる。

ビジネス社は相当に抵抗したようだが、「それなら広告全体を出さない」と読売側の強行意見で、「やむを得ず、平野さんの新刊書は他の書籍に差し替えました。申し訳ありません」とのことわりがあった。担当者は「こんな不祥事は社会的に問題にすべき」との意向であったが、私は読売側に抗議する気にもならなかった。理由は「参議院選挙に影響を与える」ということのようであったが、内容に文句があるなら堂々と指摘して論議すべきことだ。日本の巨大メディアがここまで「せこく」なったとは、お釈迦さんも気付いてはいないだろう。

財務省の手先になって消費税増税を煽り、自らはそれを免れようと必死になっている『新聞協会』等が、自民党官僚政治の安定的復活に奉仕するようでは、この国に民主政治は育たないし、未来はない。

3)広島で考えたこと―自民党よ 核武装の道を歩むのか―
7月15・16日と広島の友人、生活の党の佐藤公治氏の応援に行った。父上の守良氏は、自民党を一緒に離党し、小沢改革派の最長老として活躍した政治家であった。私には個人的に特別な関係があり、広島のためにも、日本のためにも当選してもらいたかった。

私が押しかけ応援に行った理由に、もう一つ大事なことがあった。60年前の第五福竜丸事件を記憶している人は少なくなったと思うが、原水爆禁止運動の原点がどうなったか見聞したかったのだ。実は私は法政大学時代の恩師・安井郁氏の指導でこの運動の下働きをした。杉並区の主婦による草の根の署名活動がスタートだった。昭和35年に衆議院事務局奉職とともに運動から離れた。

広島での原水爆禁止運動が、すっかり風化していることに驚いた。何人かの広島に住む人たちから「東アジアの安全保障で、日本も核武装が必要になる」との話を聞くにいたって、原水爆禁止運動の形骸化を知った。
今回の参議院選挙で自民党が圧勝したが、原発再稼働の推進によるプルトニウムの増産、アベノミクスの混乱による社会不安増長の中で、緊迫している東アジア外交にみえるように、日本人の民族主義が狂ってくると、次に「核武装」への道を歩む方向が見えてくる。参議院選挙後の、最も危険で重要な問題といえる。

保守とか革新などという括りを排し、目先の利害に拘る既成政党を超えた良識のある日本人の結集により、「核武装」や「戦争への道」は何としても止めなければならない。日本一新の会に集う皆さんのお力を借りながら、老体にむち打ち、もう一働きと覚悟を新たにしている。(了)

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