日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
〇「高知勝手連決起大会」紀行記 2
《憲法9条の根本をどう考えるか!》
平成26年7月、安倍自公内閣が「集団的自衛権の行使」について、解釈改憲を決定して以来、昨年の安保法制の成立にかけて反対の言論活動やデモなどに参加してきました。昨年は保守良識派も含め、安倍政治への批判が盛り上がりましたが、私は反省することが多く、特に憲法9条について不勉強であったことに気がつきました。
それは、9条が制定された経過の真実が、憲法学者や政治学者によって十分に研究されていないということです。これまで9条は、戦勝国の連合国側が、敗戦国日本に「押し付けた」とか「制裁のため」とか「日本丸腰論」などがありました。私もその程度の理解でしたが、国際的視野と歴史的背景など根本問題から研究し直してみますと、重大な問題を見つけることができました。
それを昨年の秋から暮れにかけて、「メルマガ・日本一新」で発表するとともに、集会やメディアなどで論じていますが、護憲派の人々からも反応がないことを残念に思っています。故里の人であればご理解頂けるものと考え、少し固い話になりますがお許し下さい。実は2月11日に私が住む千葉県柏市で「9条の会」の有志で『日本の青空』という映画を観る会がありました。「日本国憲法誕生の実相」をテーマにして、戦後間もなく、憲法学者の鈴木安蔵先生を中心とする民間人による「憲法研究会」の憲法構想が、GHQの憲法草案の手本になった物語です。
私の関心は9条の構想がどういう背景でつくられたかにあり、その映画ではワンシーンだけ、幣原喜重郎首相の「戦争放棄と自衛権の行使を行わない」との意見と、マッカーサー元帥の意見が一致してできたものとしか出ていませんでした。「あゝ、これは〝憲法9条の会〟の学者たちもわかっていないのだな」と感じました。
まず、9条が構想・立案され審議成立・公布・施行される日程と、国内外の動きを見てみたいと思います。
1)1945・8・14 日本ポツダム宣言受諾(8・15敗戦)
2) 〃 10・24 国連発足(51ヶ国)
この時期から、敗戦国日本として憲法をどうするか議論が始まる。(幣原内閣で松本委員会発足 10月27日。諸政党や民間団体からの憲法改正案が、11月から翌年の3月にかけて、相次いで発表される)
3)1946・2・1 国連安保常任理事国(米英ソ仏中)の参謀総長が、ロンドンで国連憲章にもとづく正規の国連軍を結成する協議を始める。(アジアとヨーロッパの2個所に設立することを真剣に議論)
4) 〃 2・3 マッカーサーGHQ最高司令官は、日本政府の松本試案(2月1日に毎日新聞のスクープ)の内容を不満とし、総司令部草案を作成するよう3原則を指示する。この第2項が9条の原形となる。
(第2項)国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、国家の紛争解決のための手段としての戦争および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
総司令部草案は2月10日に完成し13日に日本政府に提示され、協議が始まる。
5) 〃 3・6 幣原内閣は『憲法改正草案要綱』として、首相談話とともに発表する。(談話のポイント「新たに制定せらるべき憲法に於いて、内は根本的民主政治の基礎を確立し、外は全世界に率先して戦争の絶滅を期すべきであります)
6) 〃 4・10 明治憲法による最後の衆議院総選挙。5月16日は第90回帝国議会が召集され、同月22日は第1次吉田茂内閣が発足し「帝国憲法改正案」が審議され、10月7日に成立した。9条については激論が交わされ、国連軍の設置を前提とした質疑が貴族院議員の南原繁東大総長が行っている。マッカーサー3原則は憲法審議で取り入れられた。
7) 〃 ・ 11月3日 帝国憲法改正案は「日本国憲法」として公布される。この時期、国連常任理事国の参謀総長らはロンドンでの国連軍設立について、真剣な議論を続けていた。
8)1947・3・12 米トルーマン大統領が議会で「トルーマンドクトリン」を発表(ギリシャ・トルコ両国に対する軍事援助を要請。自由主義国に対する共産主義の脅威と闘うことを提唱)これを機にロンドンでの国連軍設立の協議は事実上できなくなる。
9) 〃・ 5・3 日本国憲法施行。国連軍の設立を前提として制定された日本国憲法は、施行した時期にはその基盤が失われていた。1ヶ月後の6月には、米国はマーシャルプランを提唱、9月にはソ連はコミンフォルムを結成。翌48年4月にはベルリン封鎖。この時期に国連軍設立協議は打ち切りとなる。
これらの歴史の事実を分析して、私が気づいたことは次のことでした。第1は、国連を設立した連合国の指導者たちは、真剣に「地球から戦争をなくそう」と考えていたことです。そのため、敗戦国の日本をモデル国家にしようとしたのではないかと思います。マッカーサーGHQ最高司令官が憲法3原則を提示した背景には、ロンドンで5大国の参謀総長の国連軍設立協議に期待し、アジアに設置される国連軍を日本に置き、戦争放棄した日本の安全保障を担当させる構想を持ち、日本を「丸腰国家」とする考えはなかったと思います
マッカーサー元帥には、当時、理想主義に基づく野望があったのです。それは3原則の中にある「日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」という文言に潜んでいます。ずばり、ロンドンで開かれている「国連軍設立の5大国参謀総長協議」のことです。マッカーサー元帥は国連軍の総司令官に就任し、次期米国大統領選挙に出馬する考えを持っていたのです。
日本が敗戦して憲法をつくり、公布して施行の直前までの約1年間、戦勝国の指導者の多くは、真面目に国家間の戦争を行わない仕組みづくりを必死に考えていたのです。マッカーサーだけでなく、トルーマンもスターリン・チャーチルも・・・・。何故、彼らがそういう考えを持っていたのか、何が原因か、それについては、この項の結論で申し上げたいと思います。
第2に、日本人と政治指導者は、国連軍の設立という9条存立の基盤を失ったことに対して、どのように解釈運用したのかについて考えて見ましょう。まず、日本人の大多数が憲法9条を受け入れた背景には、「大平洋戦争で約310万人にのぼる日本人の命を犠牲にした」という現実に、再び戦争をしない国にしようという強い感性があったと思います。憲法公布の時には生きていた9条の前提が、施行の時には消滅していても、この感性は失わなかったのです。
憲法9条を改正して「再軍備により、米国と共に共産主義と闘うべし」との圧力が、米政府だけではなく、安倍首相の祖父である岸信介氏を中心とする、国内の戦前国家回帰の勢力からも仕掛けられるようになります。特に占領体制から独立講和交渉に朝鮮戦争が重なるようになると、9条は風前の灯火に晒されます。
それを護ったのは、人道的平和主義の有識者たちであり、革新派の政治勢力でした。9条の理念と精神を護り生かそうとしたのは、革新派の政治勢力だけではありませんでした。自由民権運動をルーツとした保守良識派、戦後の政権を担当してきた人たちでした。この人たちは米国からの「9条改正圧力」に対して、手練手管で対応し、対立と妥協を繰り返し、厳しい国際政治の現実に対応してきたのです。彼らはかなり無理な9条の拡大解釈を重ねてきましたが、「集団的自衛権の不行使」は、9条の最後の理念という信念だけは護り続けたのです。この、最後の首の皮一枚を安倍自公政権は叩き切ってしまったのです、これは9条の制定経過からみても想定できないことで、解釈改憲は許されないクーデターです。
以上、固い話をしてきましたがここらでまとめてみたいと思います。かくして昨年の安保法制国会で、国民・市民の政党を超えた反対運動が発生したのです。この運動は世界的な活動へ展開しようとしています。私はそれを動かしている原動力は何か、これに強い関心があります。それが9条をつくった根本です。大平洋戦争で命を失った日本人約310万人の霊的集団無意識と私は考えていましたが、それは間違いでした。第1次、第2次世界大戦の犠牲者は、世界中で3千万人を超えています。この人たちの霊的集団無意識が9条を造ったことに気がつきました。
更に、第2次世界大戦後の戦争犠牲者は2千万人を超えているといわれています。人類は、100年で5千万人を超える人間の命を戦争で殺している現実を考えると、9条は日本だけの問題ではありません、人類として護らなければならない最大の問題です。日本人のすべてがこの感性を持つことで、これからの日本の存立と発展が展望できると思います。
(続く)
※注意:平野論考には、日本国憲法違反を犯し続け、沖縄を事実上米国(米軍)に与えた昭和天皇―吉田茂ラインの「憲法違反行為」に対する考察が欠けている。残念ながら、いわゆる、「国体(=天皇制)と民主主義政体」の関連性を厳しく問う姿勢に欠けている。