日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
○「安保法制懇報告書」は戦後歴史への冒涜!
5月15日(木)に、安倍首相に提出された「安保法制懇(安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」)報告書」に重大な欠陥があると、私に連絡してきたのは、日本一新の会のS維持会員だった。

指摘された報告書の部分(17頁・第2章あるべき憲法解釈)は、次のとおり。「わが国が1956年9月に国連に加盟した際も、国際連合に規定される国連の集団安全保障措置や、加盟国に個別的又は集団的自衛の固有の権利を認める規定(第51条)について何ら留保は付さなかった。」

S氏は私が、衆議院事務局時代の昭和30年代後半に、政府の憲法調査会の国会関係問題を整理したり、平成に入ってからも、国連平和協力法や、湾岸戦争問題に関わっていたことを知っていて「平野さんが、これを放置しておくことは許されませんよ!」と、脅迫(?)してきた。

新聞で報告書を読んで、二つの致命的間違いがあって驚いた。ひとつは、「国連加盟の日は12月18日の総会」であること。もうひとつは、憲法第9条との関係で「軍事協力や参加の義務に負担しないことを留保している」のに、報告書は「何ら留保は付さなかった」と断言しているのだ。

安保法制懇の、柳井俊二座長も北岡伸一座長代理も、20年くらい前には知らない仲ではなかったが、まずはマスコミがこの問題を採り上げるのが筋だと思った。そこで某大手新聞と、某大テレビ・日刊ゲンダイの担当者に資料を添えて、報告書に重大な欠陥があると伝えた。5月20日付の日刊ゲンダイが、5段抜きで問題ありと適切な報道を行った。他の巨大メディアは、5月27日現在も梨の礫である。

日刊ゲンダイの記者の話だと、安保法制懇の事務局である内閣官房国家安全保障局の担当者は「加盟日付の誤りは何らかのミス」と認めたが、「留保については、政府は答える立場にない」とのこと。北岡座長代理に取材を申し入れたが返事がないようだ。その後、国家安全保障局担当者への取材で「平成2年及び13年の政府答弁で〝留保〟していない」との回答があったとのこと。

さて、私が何故「留保」にこだわるのか。それは敗戦後の想定を超える日本外交を苦渋の中で進めてきた先人たちの功績を、その後の外務省、そして安保法制懇のメンバーが冒涜しているからである。

憲法9条という、どの国にもない軍事活動を否定した課題を抱え国連加盟交渉に臨んだ、西村熊雄元条約局長が昭和35年8月10日、政府の憲法調査会で「第9条を直接いわないで、・・・・・軍事的協力、軍事的参加を必要とする国連憲章の義務は負担しないことを(加盟申請書に宣言とし)はっきりいたしたのである。この点は忘れられておりますけれども、この機会に報告しておきます」の述べている。「留保」という言葉がないので、「留保」でないとするその後の政府見解は戦後政治に対する冒涜である。

この問題は引き続き様子を見て追求していくが、今日付(5月29日)の「日刊ゲンダイ」に、安全保障問題について私のインタビュー記事が掲載される。併読して参考にしていただきたい。

○「万次郎とユニテリアン思想」(草案)
4、忘れられたユニテリアン思想(続き) 

(日本の近代化とユニテリアン思想) 万次郎は帰国後、自分からユニテリアンであると表明したことはない。キリシタン禁制であったことによろう。明治時代になっても、自分がクリスチャンであったことを表明していない。その理由はユニテリアン信仰そのものにある。宗派を超越して「人類愛」や「隣人愛」に生きる万次郎の信条によるものであった。明治時代になって、幕末に万次郎から人間教育を受けた大勢の人たちが、各界の要職に就くことになる。この人たちは意識しないユニテリアンだった。

明治6年(1873年)にキリスト教禁制が撤廃された。正統派の宣教活動が始まる。彼らは日本文化を理解せず、西欧文化の優位性を主張し、キリスト教を唯一絶対の宗教と主張した。明治新政府による憲法の制定や国会開設の準備が本格化するようになると、これらの制度がキリスト教文化に根拠を置くことから、正統派の宣教師との接触で、さまざまな困難な問題が生じた。

日本の知識人や政府要人の間では、他宗教に寛容で異文化に理解があり、ユニテリアン教会なら、日本の真の近代化に役立つと期待するようになる。明治初期に米国に派遣された森有礼(公使)や、吉田清成(公使)らが、ユニテリアン思想を知り、日本に導入する運動を行っている。また、伊藤博文の側近、金子堅太郎はハーバード大学留学中にユニテリアン思想を知り、日本への導入を推進した。

明治11年(1878年)に帰国した金子堅太郎が、東大予備門の教員となった時期、ハーバード大学で同窓のフェノロサ氏が来日し、東大で哲学などを教えることになる。フェノロサ教授は、エマソンの「東西文化の融合」を研究テーマとする。同氏は仏教に改宗したがユニテリアンの支援を続けた。金子堅太郎は大きな影響を受ける。明治22年には「明治憲法」が発布され、翌23年には「帝国議会」が発足するという時期に、金子堅太郎は米国に議会制度の研究に行く。ボストンのユニテリアン教会で「現在の仏教は腐敗していて望みはないが、最高形態の仏教とユニテリアン思想は変わらない。ユニテリアン教はどの国よりも日本で未来がある」と演説している。(土屋博政著『ユニテリアンと福澤諭吉』慶大出版会)

当時の日本の知識人で、ユニテリアンに強い関心を持ったのは福澤諭吉であった。福澤諭吉といえば、万次郎から英語を学び、咸臨丸で米国の草の根デモクラシー(ユニテリアン思想が背後にある)を教えてもらった経緯がある。明治10年代にボストンにいた福澤の長男・一太郎が、日本の宗教事情調査のため準備中であったアーサー・メイ・ナップ宣教師を、父に手紙で協力を要請して関係が始まる。

福澤諭吉がユニテリアンにかける思いは普通ではなかった。ナップ宣教師の活動は福澤の協力なくして成功しなかった。前述した明治21年4月15日の交詢社での講演も、福澤の肝いりであった。もっとも、ユニテリアンの協力者になったのは福澤諭吉だけではなかった。東大総長の外山正一、同じく加藤弘之、東大教授で明六社をつくって啓蒙思想を普及し『自由の理』の著者中村正直らがいた。

また、副島種臣、杉浦重剛、渡辺洪甚ら政治家や学者が理解者であった。文学界では幸田露伴、北村透谷らがユニテリアン思想から大きな影響を受けていた。明治政府をつくった有識者の思想形成にユニテリアン思想が与えた影響は大きい。こういった運動に万次郎が関わったことを実証するものはない。

福澤諭吉は慶應義塾に神学部をつくり、ユニテリアンの教育を行う構想まで持っていた。しかし、明治30年頃、福澤はユニテリアンに関心を失うようになる。その経過と理由については土屋博政氏の『ユニテリアンと福澤諭吉』で詳細に述べている。要点は、 第1は教育勅語問題である。明治23年に発布された教育勅語は、福澤諭吉にとってきわめて不満のものであった。日本のキリスト教徒が全て反発するなか、ユニテリアンだけが評価する。福澤は看過できない。

第2は、ユニテリアン宣教師間の内部抗争である。純粋にユニテリアン思想を広めようというグループと、支配層や有識者に迎合することで広めようとするグループの対立である。

ユニテリアンから離れていくのは、福澤だけではない。金子堅太郎もその一人だ。明治27年の日清戦争を契機として、天皇に対する忠誠心とナショナリズムの高揚は、支配層からユニテリアンに対して関心を薄めていく。

日清戦争後、わが国では資本主義が急速に成長する。支配層や知識人から離れたユニテリアン運動は、労働問題や社会問題を解決しようと真剣に考える人たちによって継承されている。安部磯雄、鈴木文治、村上智至らがユニテリアンとなり、社会派の政治家・島田三郎が協力者となる。鈴木文治は安部磯雄の指導で、ユニテリアン教会を足場に労働者救済のための組織「友愛会」をつくる。その労苦の経過は、吉田千代氏の『評伝 鈴木文治』(日本経済評論社)に詳しく記録されている。

大正元年(1912年)8月1日、「友愛会」は労働者の共済的親睦団体として発足する。大正10年には「日本労働総同盟」として全国組織の労働運動の中心となる。戦時体制となるにれ、国家体制に組み入れられた。

敗戦後の混乱期には米ソ冷戦の影響を受け、労働運動も混乱をきわめる。戦後の経済成長、豊かな社会、そして自分中心文化とともに、労働組合運動も「友愛の精神」が忘れられていく。現在も鈴木文治の精神を継承すべく「友愛会」は組織として活動しており、東京都港区芝に「友愛会館」がある。その場所が、かつてのユニテリアン教会であったことを知る人は、関係者でも少ない。
(この項、続く)

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